春漂流記

目指すは「無意識」の存在証明。

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03 2008

白黒

川端裕人・著
「星と半月の海」
講談社・刊

限り無くフィクションなのだが、趣はノンフィクションのそれに近い。
全6編の短編集で、全ていわゆる動物に関係があるストーリーである。
ところで、我々が動物と聞いて思い浮かべるのは、いったいどういうものだろうか。
犬や猫、虎やライオン、雀や鶏、亀や金魚、はたまたミジンコや蚊も紛れも無く動物だ。地球上に存在する生命と思しきものを最も大雑把に分類すれば、それぞれ動物、植物、それ以外の3つの呼び方ができる。
つまり、ひとえに動物と言っても幅が広すぎて、それゆえに動物を思い浮かべろと言われても人により千差万別。それが当たり前。
とりあえず、私が今思い付くのは、夜中だというのにギャーギャーと泣きわめく飼い猫だけど。
だが、我々にとって一番身近な動物は実は人間そのものではないか。しかし、人間は動物である、と明確に宣言することに対して何かしらの違和感や嫌悪感を覚える人も少なくはないように感じる。最近はそうでもないようにも思うが。
まあ、これには宗教的な意味合いや、人間のエゴが絡んでくるし話が非常に逸れるのでまたの機会に取っておきたい。というか、面倒くさいからできればそっとしておきたい。
ただ、人間は動物であり生命である、という根本的な事実がこの本を読んでいくとよくわかるのだ、と付け加えておこう。

しかし、何だ、この偉そうな文章は。「付け加えておこう」って、どこの映画の主人公だっての。

そろそろ本題に入らないと、いつまでたってもタイトルにたどり着かないわ。

昨日、上野動物園のパンダが死んだ。

ところで、初っ端から脱線するが、パンダの名前は世界的にカンカンとかランランのようなものなのだろうか。リチャードとかジゥニファなんてパンダがいても、それはそれで楽しい気がするのだが。

腹水が溜まりに溜まっていたそうだが、そこだけ覚えていて死因はよく知らない。下調べなしに書くのは、これが書評の名を借りた覚書き日記だからだ。ばっちこい無責任。
腹水が溜まるのは腎臓が悪い時だったかしら。いや、違う気がする。

パンダは竹を食べる。
笹ではない。
笹みたいに細い竹を食べる。これは以前テレビで、どう見ても笹のようなものを食べている恐らく野生のパンダが映され、彼らは竹林に住んでいると説明された時になんとなく理解した。
ただ、動物園ではリンゴなどの果物を食べるそうな。
孟宗竹などの枝も与えるそうだが、あまり好きではないらしい。動物園でパンダが竹喰ってたらそれはほとんど孟宗竹だと思って良い。
パンダはそれらをほとんど消化せずに排泄し、その代わりと言っては何だが、日がな一日食べ続けるらしい。
消化しきれていないため、排泄物は竹や果物の甘い匂いがするそうだ。
ほとんど消化しないということは、得られるエネルギーが少ない。食べ続けなければ、栄養がすぐに足りなくなる。
それであの大きさなのだから恐れ入る。

私はパンダが好きでも嫌いでもない。どちらかといえば好きかもしれないが。
可愛いかと問われれば、まぁ可愛いんじゃないの、と答えよう。
ただ少しイライラする。
イライラは言い過ぎか。
もやもやする。
まず、その配色だ。
この宇宙船地球号には様々な生物が存在し、その多種多様の生物たちは生命の神秘ともいえる独自の形状・色彩を持ち、自らの種の繁栄と存続のために、絶えずそれを進化させてきた。その中には一見おもしろおかしかったり、恐怖を喚起させるもの、絶句するほどの美しさを纏うものもある。
そして、それらには全て意味があり、生命線だ。
で、パンダ。
進化の過程において、いったい何が彼らの身に起きたのか。
白と黒のくっきり分かれた配色。同じような配色のホルスタイン牛やダルメシアン犬では、模様には明確な個体差がある。いわば、パンダは昆虫並みに毛色が揃っていると言える。(言い過ぎ)
次に、その仕草。
でーんと座り、ごろりと横たわり、横たわりつつ竹を食べる。まさか、食っちゃ寝という言葉はパンダの為に作られたのではないだろう。
極めつけは、食生活。
なぜ竹なのか。
きっと他にも何かあったろうに。
まさか、竹しかなかったなんてことがあったのだろうか。
まさかバックヤードで肉食ってんじゃないか、毎晩飼育員が色を塗ってるんじゃないか、本当は着ぐるみなんじゃないか…などという馬鹿みたいな想像さえ巡らすのも容易だ。
考えれば考えるほど、不思議な動物だ。
配色、行動、食生活、この3つを総合させると、もはや架空のキャラクターにも引けを取らない。むしろ、その存在自体が冗談に近い。
元から架空のキティーちゃんなんか目じゃないのである。

一向に本の話に入らない。
永遠にならないんじゃないか。
いい加減、書き過ぎたせいで飽きてきた。

よし、本の話。

ある動物園の飼育員が主人公だ。
彼は、最初の短編ではペンギンの飼育係なのだが、しばらくしてパンダの係に配置換えされている。
スケッチが得意なのだが、彼はパンダが時折見せる野性的な一面を狙って描く。それは、彼が動物園でゴロゴロと日々を過ごすパンダに失望を感じかけているのと同時に、パンダの中に眠る野性に魅力を感じつつあるからだ。
そしてそのスケッチを、中国から派遣されているパンダのお目付け役ともいえる男性に見られたことから、物語は展開していく。

動物園にいる動物達は、幸せなのだろうか。
そもそも、幸せという定義を人間以外の生物に適用しようとする行為自体が人間本位の基準の押し付けであるのだが。
人に飼われることは、果たして多くの動物達にとって有益か否かというのも変か。
人間が飼うべく品種改良・交配を経て今に至る愛玩動物にとっては、その前提からして人間に飼われる、もしくは人間のコミュニティのそばに寄り添うことが最も利に適った生き方かもしれない。
しかし、野生動物(愛玩動物にしても先祖は野生だが)にとってはどうか。
動物園などで、檻の中を行ったり来たりする、柵を囓る、鳴き続ける、そんな動物達を見るとよくわからなくなる。出たいのは確かだろう。出てどうするのかは置いて、檻の中は狭いから。
そういう動物を見て、私達が感じるものとは何だろう。
単に、「ライオン格好いい」とか「カバでかい」とか「オウムきれい」とか「コアラ可愛い」では済まされないものを、実は見せられているのではないか。
果たしてパンダは故郷の竹林で竹を食べたいだろうか。
そりゃ檻の中という狭いスペースに閉じ込められるのはどんな生物だって嫌だとは思うけど。
この短編は、2つのストーリーが交互に語られる。
一つは飼育員である主人公の主観。
もう一つは、主人公の妄想の中で動物園を脱走するパンダの話だ。
パンダが野良猫のように都会で生きていくことは難しいだろうが、ビルの谷間や住宅地や商店街をのそのそと歩くパンダは、想像すると少しシュールで面白いかもしれない。
この話の結末は、野生のパンダが元気の無い時や竹が枯れた時(竹は約100年周期で一部の根…地下茎を残して枯れる)はどうするのかという疑問と、妄想の中で脱走したパンダがやっと食べ物にありつく場面で収束する。
個人的には、「あぁ、まぁなるほどね」という感想なのだが、パンダフリークスやパンダをキャラクターとしてしか認識していない輩にとってはどうだろう。

その他の短編もあわせて、動物好きじゃなくてもオススメの一冊。
博物学に興味のある人には特に。

400字詰め原稿用紙にして、20枚前後とは。よく書いたもんだ。

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