春漂流記

目指すは「無意識」の存在証明。

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30 2008

半月ほど前の出来事

そういえば、9月14日は中秋の名月だったそうだ。
確か、ちょうどその日は、台湾付近に停滞した台風から伸びた雲が西日本を覆っていたため、満月など見えるわけもなかったのだけど、少々変わったことがあった。
家の裏に広がる竹林の奥に、一件のこじんまりとした一軒家がある。そこには老夫婦と、娘と言うには若すぎるであろう女の子がすんでいる。名前は迦具夜とか言う。確か高校生で、たまに電車で一緒になったりもするが、多少お隣りさんという贔屓目があるしても結構可愛い。ただ、少々電波系で、信頼できる情報筋によるとなかなかの小悪魔(笑)らしく、告白してきた男子数人(いずれも金持ちのボンボンだそうな)に無理難題(石油の採掘権とか、ムー大陸の秘宝とか)をふっかけてはことごとく振ったとか。
恐らく老夫婦の孫か親戚の子だろうと思うのだが、だいぶわがままに育っているようだ。
ちなみに、爺さんはその道では有名な竹工芸師で、竹取りの翁だとか呼ばれているらしい。よく百貨店のバイヤーとかコレクターが、うちで道を聞いていく。好好爺の文字をそのまま人の形にしたような、優しい爺さんだ。
それはさておき、先日、竹林の入口辺りを掃除していると、何やら着物を着た物々しい隊列がやってきた。後ろの方に牛車が見えたので、高貴な血筋だかなんだかの一行なんだと思い、箒を抱いて道をあけた。
すると、先頭の馬に乗った男が、私のちらと見て片手を上げ、馬を止めた。後ろの集団も歩みを止める。
何やらよくわからんので、突っ立っていると、馬に乗った男が私に向かって「竹取りの翁なるものの住みたるは、この竹林か」と聞いてきた。
私は、今どきこんな喋り方するやつがいるのかと半ば感心しながら、「ああ、はい。この小道を上った所に住んでますよ」と竹林を上る道を指差した。
男は「左様か」と言うと馬から降り、牛車のところまで駆けて行く。
しばらくして、牛車が近付いて来た。中からひと際きらびやかな着物を着た小太りの男が降りてきて、何人かのお供を従え、竹林の小道を上って行った。そんなにきつい坂でもないのに、フゥフゥと肩で息をしていた。
私は何事かと思ったが、お腹が空いてきたので、箒を引きずりながら家に戻った。あと、小太りの彼は少し痩せた方が良いと思った。
それが9月1日の話。
それから、毎日のようにその集団はやってきて、小太りの男はやはりフゥフゥと坂を上って行く。何だかわからない。もしかしたら、単に彼の運動のためなのかもしれない。ただ、裏の道がお供やら馬やら牛車やらで塞がってしまうので、近所迷惑である。
それから何日かして、迦具夜嬢を電車で見掛けた。彼女は、明らかに不機嫌そうだった。もしかしたら、あの小太りが原因かもしれないと思ったが、よく見ると彼女の肩には女子高生の制服には不釣合いなブランド物のバッグがかけられていた。
その数日後、確か9月10日あたり、今度は婆さんの方にスーパーで会った。婆さんは気さくな人で、よく煮物とか漬物をお裾分けしてくれるのだが、その日は元気がないように見えた。
小太りのことも気になるし、声をかけてみた。
婆さんは弱々しく笑って小さく頭を下げると、深々と溜め息をついた。
婆さん曰く、毎日毎日小太りがやってきては娘を嫁にくれとうるさい。娘にブランド物の服やら鞄やらを買ってくるのは良いが、あまりにもしつこく言い寄るので娘もイライラしている。翁さんの作品を買い付けに来た客を勝手に追い返す。毎日来るので人数分の食事を作るのが面倒。ということらしい。
たしかに迷惑だ。しかも、娘の学校にまで押し掛けて来る始末で、学校側も困っているそうだ。
極めつけは、どうやらあの小太りは、軽々しく口にできない高貴なお方であり、だから来てくれるなとは言えない、と婆さんは力無く言葉を切った。
何だかスケールのでかい話だ。
私のような下々の者には、やんごとなき方々の考えはよくわからんが、どうやらあの小太…もとい、かの高貴なお方は香倶夜嬢に惚れ込み、求婚しているということらしい。
ところが、婆さんの目下の悩みは、もてなしにかかる食費と献立であるようで、それはそれで微笑ましい話だとも感じた。
そして、9月14日。その日は朝から風が強くて、せっかくの連休なのに天気悪いし出かけらんないと腐っていた。
部屋の窓から竹林を見ると、竹が波打つようにわさわさと動いている。さすがに台風だから小太りのお方は来ないと思っていた。
だが、昼ご飯の支度をしていると、裏から何か大きな発動機のような音や、キャタピラーのキュラキュラ鳴る音が聞こえてきた。こんな天気の良くない、しかも休日に工事かよと思ったが、時折聞こえて来る声がどこかおかしい。
チャーハンを炒める火を止めて、裏に出てみると、そこには戦車やら対空ミサイルやら高射砲やらレーダーやらがひしめき合い、竹林の入口付近には土嚢を積み上げた陣地ができていた。
陣地や車両の間を兵士然とした男達が歩き回り、皆肩から銃を下げている。
幌やテントが風にあおられバタバタ鳴り、兵士たちの声は更に大きくなる。
非常に物々しい。
軒下でそれらをぼーっと眺めていると、携帯が鳴った。友達から、ボウリングへの誘いだった。私は快諾した。30分後に迎えに来ると言うので、急いで家に入り、チャーハンを作って食べた。
服を着替えている内に、表でクラクションが鳴った。慌てて玄関を出ると、傘を差さないままで車に飛び込んだ。
友達は開口一番に「戦車とかあったけど映画の撮影とか?」と聞いてきたが、私はわからないと答えることしかできなかった。
その日はボウリングの後も色々あって、連休ということもあり家に帰らなかった。
翌日は昼前頃、豪雨の中を家に帰ってきた。
裏の兵士や戦車は跡形も無かった。寝不足だったので、夕方まで寝た。小太りが来たかどうかは寝ていたのでわからない。
その翌日、9月16日。朝の電車で迦具夜嬢を見掛けた。
彼女は眠そうな顔で吊り革にぶら下がっていたが、途中駅で友達と思しき数名の女子高生が乗り込んで来ると急に元気になり、声を立てて笑っていた。彼女の肩にブランド物のバッグは無く、手に学生鞄を下げていた。
小太りは、戦車が来た日以降姿を見せなくなった。迦具夜嬢に振られたのかもしれない。
不思議なのは、最近近所で耳にする噂だ。あの9月14日の深夜、台風の直中にありながら、空が晴れたというのだ。中には、怪しい光を見たとか、UFOが降りて来たとか言う人も現れた。
しかし、それと戦車と小太りがどう関係してくるのかはわからず終いである。
ところで、一昨日、婆さんが茄子を大量に持って来てくれた。畑でこれでもかという程採れたらしい。おかげで私は3日間、茄子ばっかり食べている。

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Posted by | 12:22 | Comment [0] | TrackBack [0] | 妄想特急

30 2008

四半世紀

夕方、家に帰ると僕宛てに小包が届いていた。差出人の欄には、WASO(世界年齢標準機構)と書いてある。
なるほど、今年も誕生日が来たというわけだ。
特に感慨があるわけでもなく、自室に入り黙々と小包を開く。長細い箱を開けると、中にはどろっとした鈍色の液体が入った、透明の瓶があった。小さなラベルには、小さく「age25」と記されている。
毎回、ここで年齢とは何なのかをチラリと考えるのだが、考えようとすればするほど頭の中にまるで霧が掛かるように、思考が鈍くなってしまうのが常だった。
気がつくと、僕は瓶を持ち上げていた。
それから、毎年しているようにキャップを開ける。
これで、僕も今日から25歳だ。

Posted by | 12:13 | Comment [0] | TrackBack [0] | 駄文

27 2008

地獄

世界史専攻だった人でなくとも、ダンテ・『神曲』という組み合わせは目か耳にしたことがあるのではないかと思う。ムンクの『叫び』と同じく、『ダンテの神曲』だと思っている人も多そうだが。
先日、とある深夜番組(?)にて、日本の幽霊に足が無いのは、昔から日本では人は死ぬと神様になるという考え方があったからだ、なんてことを知った。
しかしどうも、日本は神道やら仏教やらその他諸々の宗教思想が入り乱れているせいか、死後の扱いがあやふや過ぎて理解に苦しむ。
神になったり、極楽浄土へ行ったり、盆に帰ってきたり、生まれ変わったり、幽霊になったりと、死者は…というか人は死んでからの方が忙しいかもしれない。

それはそれとして、13・14世紀以降のキリスト教(カソリック及び正教会)的な思想では、前述の『神曲』(三行構成の叙情詩で構成されているらしい)における地獄・煉獄・天国の概念は半ばオフィシャル設定と位置付けられているそうな。
有名なのは、かの有名な彫刻家ロダンが『神曲』に影響を受け作った『地獄の門』にも刻まれている銘文。

Per me si va ne la citt* dolente,
per me si va ne l'etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.
Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sap*enza e 'l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'
(*は機種依存文字)

最後の一文は「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という訳で知られている。まぁ、あんな禍々しい門なんか見ただけで希望も糞も思い描けないと思いますが。

この『神曲』どういう話かというと、作者のダンテが聖人や理想の恋人(なのか?)に連れられて地獄から天国まで旅するというのが大筋。どんな罪を犯すとどういう地獄に行って永遠に苦しみますよとか、死に際に悔い改めれば煉獄に運ばれて徳を積めば天国に行けますよとか、天国はこういうところですよって感じに半ば死後の世界観光スポット案内(大霊界みたいなもんか?)が延々と続く。
中でも神に背く(背信、異端、不信心…非洗礼者)ことは相当な罪らしく、イスラム教の開祖ムハンマドなんかが首まで水につけられて苦しんでたりする。皮膚がふやけて大変だ。
もちろん七つの大罪なども、重罪とされるが、程度や生前の悔い改めにより天国に行くチャンスがあったりもする。
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けますよ」というわけではないが、悔い改めなる行為は割と重要なのだ。

時に、天国や地獄はいったいどこにあるのかなんて話がある。
単純に天国が空の上にあったり、地獄が地の底にあったりというわけではないらしい。
よく、異世界の存在を、海と陸の間とか、水と空気の境に存在するなんて表現しますが、これはつまり異次元だとか平行世界などというものの在処を概念的に説明しているわけだ。
境界面、例えば皮膚と空気の間を決定的に分け隔てるものは何かと昔の人は考えたわけで、もっと細かく言えば、原子と原子の間にはいったい何があるのかということに他ならない。
非常に分かりにくいが、そういう境界面をくぐり抜けると違う世界があったりなかったりと定義付けたのである。
キアヌ・リーブスが主演をしたアメコミ原作の映画では、主人公が現世と平行に存在する『あの世』とを条件付きで行き来できるとかいう設定だったと思う。
似たようなものに、生きること自体が苦痛を伴う辛いことだから、もしかしたら現世が煉獄そのものなんじゃないのかなんて考え方もある。
現世で悔い改めることが、天国に行くという試練というわけだ。
人は生まれながらにして罪を背負っているからだとか何とか。
でも、それだと人の罪を背負って磔にされた神の息子の立場が無い。
まぁ、それを文字通り免罪符にして随分悪いことしてるから、定量超えたのかもしれない。
今回は地獄の話だったのを忘れかけてたが、既に何で地獄の話を始めたのかは完全に忘れてる。
まず『神曲』はどこから出てきたのやら。

ふと、僕は死んだら地獄行くのかなぁとか思ったんですが、特に何か信じてるものが無いんで、今のところ死んだ後の予定はないです。
なので、誰か一緒に飲みにでも行きませんか?
飲み屋くらいあると思うんで。

Posted by | 07:04 | Comment [0] | TrackBack [0] | 携帯より

27 2008

メモ

口内炎を甘噛みするような
ギリギリのラインで楽しむ痛み
焦らして惑わしてスッと引く
耳元で囁くいやらしい台詞
手が届きそうで届かない月のように
息遣いまで悪意に満ちた僕らが
蔦のように絡まりあう

いつしか血の苦みとエグさが口の中に広がって
そして君は言う
何て言う

イヴニングドレスの背中が
果実の悩ましさで汚れていく
シャンデリアから蝋が降り注ぐ
アルコール度数の高い唇と
視線に胸を抉られても
明日もいつもどおりに8時のバスに乗り込む
その覚悟にも少し綻びが見え隠れしてる
中途半端な真夜中にバルコニーへ連れ出そうか
ダブルベッドの上は雨降りの予感だし
コールタールみたいにまとわりつく指先から
逃げるために靴は履かないままでいいよ

Posted by | 06:49 | Comment [0] | TrackBack [0] | 携帯より

20 2008

キサラギ

アイドルに、嵌まったことのない私には、いまいちファン心理というものがわからない。というか、どうも芯からオタクになりきれない性格なので、何かひとつのものを徹底的に追い続けるなんて経験がない。したがって、どうも、こう、何かしらのオタクという人たちには引け目を感じてしまう。そんな必要は無いんだろうが。
浅く広く、時たまやや深く。そんな信条で生きてますってなもんで、ここら辺、なんともまったくどうにも自慢できる話ではない。
でも、おそらく、この25年間、オタクエンカウント率は非常に高かったと自負している身とすれば、小栗旬の演技には脱帽した。
「ああ、こんな人いるいる、いるなぁ」と、思わず唸った。
でも、そんなこと考えている時間も束の間、物語に引き込まれてしまい、なんか、オタクとかそういうのどうでもよくなった。
手法としてはありきたりなのだけど、だからこそ非常に高度な演技力(主に間の取り方か)とか、構成が要求される。それが、密室推理劇(?)とかそういう類のものだと思う。
よくできてると思ったことのなかに、物語に引き込まれるんだけど、どうしても一歩引いた目線でしか観ることができない、という距離感がある。
それは、当事者じゃないからとか、オタクじゃないからとか、フィクションだからなんじゃなくて、これがアイドルの話だからなのだと思う。
偶像。いるんだけど、いない。つかみどころがない。現実に、確かに存在するものなのに、その存在が現実と乖離している。小栗演じる「家元」が感じている如月ミキとファンとしての自分との距離感が、見事に演出されている。様な気がする。
大体、あまり名の売れていないアイドルが自殺しても、ちょっとしたニュースにはなってもすぐに大半の人々の記憶から消えてしまう。その出来事自体に現実味がないのかもしれないし、しょっちゅう起こる悲しい事件のひとつと片付けられてしまうということでもある。それによって、たくさんの人が悲しんでいるのもわかるのだけど
登場人物一人一人にスポットが当たっては、急転し、落ち着いて、事実が一つずつ明かされていく。現実ではあまりお目にかからない展開ではあるけど、「実は…」という、ドラマティックな自分語りの一つや二つ、大抵の人間が持っている。それを大袈裟にすると、この映画みたいなことになるんじゃないか。
皆が皆、疑問と疑惑を抱えていて、それらがパチンパチンと弾けて消えていく。後には空しさしか残らないのだけど、それはそれで清々しい。
それで終わらないのが、いやらしいところなんだが。
何かに没頭するあまり、周りが見えなくなる。
端から見ると滑稽であっても、真実を追求するなんてそんなもんだと。

Posted by | 08:22 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

10 2008

魔法信者

散々オーラに対して懐疑的な事を書いておきながら、今日は魔法について肯定的に書いてみる。(別にオーラを否定してるわけじゃないしー)

とは言っても、現実の世界における魔法ではない。フィクションとしての魔法について。
ハリー・ポッターシリーズが割と好きだ。
割とというのは、どうも本(和訳)の方が苦手だからだ。訳文の文体が苦手というのが正しいかもしれない。(「賢者の石」も「死の秘宝」もペーパーバックで辞書片手に難なく読めたので)
つまるところ、映画が好きだという話。
何にせよ、初めて「ハリー・ポッターと賢者の石」を観た時は驚いた。
いわゆる遊園地(テーマパーク)の楽しさである。
擬音語で表す楽しさと言おうか。
一気にファンになった。勿論、映画の。

魔法なんて見たことがないから、いくらCGを使ったって現実味に欠けるわけで、だからこそCGを使う意味がある。見たことも無いようなものをスクリーンに登場させるという点では、余程に説得力がある。
私たちが、CGで作られたものを見て、それがどんなに精巧であっても何となく嘘っぽいと思うのは「そんなもの見たことがない」からなのであって、それは世にも美しい蝶とか深海の生物に感じる感想と似ている。
蛍の存在を知らない人に蛍の映像を見せたら「嘘っぽい」と思わないだろうか。
初めてハダカデバネズミやダイオウグソクムシを見たら、「嘘っぽい」と思わないだろうか。
綺麗過ぎる花を見て「造花じゃないの」と思わず触ってしまうのも、9.11のWTCビルに突っ込む飛行機も、超ハイスピードカメラで撮影された銃弾が鉛筆を貫く映像も、今まで見たことがないから嘘臭く見える。
だから、魔法が嘘臭く見えたってそれは当然だし、まず嘘だし、だけどCGの魔法を見て嘘臭くてつまらないって断言するのはつまらないことじゃないだろうか。
映画の中だけでも、その魔法の存在を受け入れてしまえば、我々、観る側の想像の範疇はそれこそ馬鹿みたいに広がるのに。

映画やドラマが見せてくれるのは、我々が常日頃にふと「こうだったらいいのに」とか「こうなったら嫌だな」と想像してしまうシチュエーションだ。
製作者たちは、日々、我々の想像に沿ったり、裏切ったりしながら、どうやって満足させてやろうかと思案を巡らせている。
ハリー・ポッターのシリーズはそれがとてもうまくいった例のひとつだと思う。

今、唐突に思い出したんだけど、黒澤明の「蜘蛛ノ巣城」という映画で、凄い数の矢が殿様に向かって飛んできて壁にドダダダって刺さるシーンがあるけど、あれって矢をピアノ線(?)に沿わせて飛ばしたんだそうだ。怖!
今だったらきっとCGで片付けちゃうんだろうなぁとか考えると、大したもんだと思う。
いや、CGじゃダメだとか言ってるんじゃなくてね。
CGだからこそできたスターウォーズEP1・2・3とか、ポニョとかあるわけだし。
背景の上にガラス板を2、3枚置いて撮影なんかしてたらあんな波とか大量の魚とか表現できないわけだし…まぁジャングル大帝レオのオープニングのOPみたいなのもあるけどね、昔から。
話を戻すけど、魔法って誰もリアリティを感じられないものだと思う。
見たことがないものは信じられないのが人ってもんだし。(幽霊が怖いというのは別。認識できないものに恐怖を抱くことと、存在を信じることは同義ではない)

魔法使いが杖の先から何か出したり、箒で空を飛んだりなんて、全人口中99%のマグルは見たことがないんだから。
だけど、あの映画はその99%のマグルの「魔法があったら(使えたら)良いのに」という思いを、見事に叶えてくれた。
私の個人的な感傷にすぎないのだけれどね。

Posted by | 10:26 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

05 2008

クレセントうさぎ

一秒だって嫌いになったことないよ
嘘だってあなたは怒るかもしれないけれど
今だってもっと近くにいられないのが悔しいって
伝えたいのにあなたは気付いてないふりするの

鞄の紐がドアにひっかかるとか
ヒールがタイルの隙間に刺さるとかそういう
ハプニングみたいに私のことを思ってるでしょう?

押し入れの中にも冷蔵庫の中にも
詰め込みきれない想いでいっぱいだし
眼鏡の縁についた指紋みたいに
私の視界を狭くしていくの
だけど玄関の鍵をかけて振り向いた時にはもう
あなたが階段を降りる音がして
いつものことなんだけど
それが寂しいって思うことだってあるよ

お月様みたいなあなたの腕にぶら下がる
私はうさぎじゃないけれど
無重力を感じられるかも

たまには上目遣いでだってドキッとしたりしてもいいじゃない
嫌いになったことなんてないよって言った私に
素直に頷くのも二人のためには大切なことだよ
だってだってまだ一緒に行きたいとこいっぱいあるよ
あなたと月の上を歩く夢だって
いつかは無重力感じられるんじゃない?

Posted by | 17:49 | Comment [0] | TrackBack [0] | 携帯より

05 2008

つまりエンドロールの光
絵と文字のまばたき
反転された世界が薄れ
空転する彼の意識
舌を出せ路傍の犬
白衣を破る毛皮の男
脳から背骨を彷徨う亡霊
突き刺さる電波塔
関係ない精神世界
完成間近な無関心
踊るように背中を掻く
演技と狂気と乱拍子
括弧でくくった愛情表現
点で結ぶと見える過去
枡を埋め続けるための性行為
それだけが唯一熱を保ち
白濁して飲み込まれるのをひたすらに待つ
連結された柘榴の実と実
赤く汚れることでしかあなたの存在を確かめることができない
毟り取ったその手で真っ黒な髪を梳いた時
生まれてきたことに初めて喜びを感じ
また一回り躯は小さく弱くなった
詩で呼吸するのに酸素は軽すぎる
柔らかな壁に爪を食い込ませて
優しさを水平に横たえたまま
飾り気のない手のひらを押し付ける
開く扉の先
艶美な匂い
逆流する体液に濡れる睫毛
滴り落ちる悦楽ゆえに拡散する焦点
夢見、固執し、囚われ、縛られ
それでも尚、一つであろうとする
滑稽な執着心を愛と呼び
また讃えずにはいられない

Posted by | 17:49 | Comment [0] | TrackBack [0] | 妄想特急

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