春漂流記

目指すは「無意識」の存在証明。

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26 2013

探偵は概ねBARにいる。(探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点 感想)

ちょっとそこのお嬢さん、探偵ですよ、探偵。
天然パーマでニヒルで強くてちょっと弱くて女にゃめっぽう弱い。どのくらい弱いかといえば、水に濡れたトイレットペーパーくらい弱い。
だけども、女と友達のためならなんでもしちゃう。
だって、バカだから。男だから。

というわけで、今回は死んだおかまのために一肌脱ぐ探偵の話。
北海道は東洋一の歓楽街、ススキノを主な舞台に、なんか殴る蹴る。
あとは、殴られる蹴られる。エンスト。
そんな感じ。

前作よりもコメディパートが厚く、ハードボイルド加減が薄くなっている。古来ハードボイルドとコメディはセットなのだが、ハードボイルド感が圧倒的に喰われてるのは、残念。
意図的に笑いを取るからそうなる。
おそらく、前作との違いを出したくてそうしたところもあるだろうし、もしかすれば、テレビ放映版を見て劇場に足を運ぼうと思った人にも向けられた配慮なのだろうか。
それとも、大泉洋ファンが求めた結果なのだろうか。にしても、探偵がかっこよすぎる。なのに、笑いしか出てこない。
すごくシリアスなシーンで、客の何割かは笑っているのがすぐわかる。(一番後ろから見たから)
というような感想はどうでもいい。

切なさとか、哀しみとか、色んな感情がまぜこぜになっているのは良いんだけど、複雑な葛藤や愛情がいまいち伝わってこないのは、オチが早いうちにわかってしまうからだろうかね。
話そのものはよくあるタイプの、不幸な家族の悲しくて良い話に尽きるが、製作側がいったいどこにフォーカスを当てているのかよくわからない。
というか、観客にはどこを見てほしいのかがはっきりしてないように見えた。
いや、もしかしたら、逆にはっきりしていたのかもしれない。
「良い話」なんかどうでもいいとか…というか、ハードボイルドな探偵モノにとって、お涙ちょうだいなストーリーすらウイスキーのアテに出されたビターチョコくらいの重さでしかなく、ぶつくさモノローグを語り続ける探偵の敗北と活躍以外に見るべきものは無いということかもしれない。

あと、話を膨らませてややこしくするためだけの意味の無いに等しい伏線が多い。伏線ですらないかもしれない。かっこよく演説してたけど、渡部篤郎何しに出てきたんだ的な。観客をミスリードするための道具としてもちぐはぐだしねぇ。
脱原発をおもちゃにするつもりなどなかったのだとは思うが、やりすぎだ。
武器を取る市民というのは、そんなに単純な構造じゃない。
けど、ある急進的な政治家の支持者を狂信的集団として描いたのは、観客(多くの日本人)のアレルギーを利用した酷いやり方だと感じた。

バッググラウンドを見せない狂信的行動は、「脱原発?怖い!」という感情しか生み出さない。
誰が得するんだろう。

文句ばっかりになってきたな。

おかまの人生は重い。
ニューハーフだかなんだかわからないが。

もうひとつ言えば、前作もそうだったけど、「それっぽい」ところが目についてしまう。
それが全体に感じるケレン味の正体なのかもしれない。
探偵っぽい、農学部っぽい、ヴァイオリニストっぽい、やくざっぽい、おかまっぽい、政治家っぽい、左翼っぽい…結局はクズっぽい。
記号が記号らしくその範疇を越えずに動くから、気持ちいいのだけど、それだけ。
だから、観てる間は特に不満もないし、充分笑えるし、ハラハラできる。それは良いところだな。

「見たあとに何も残らない映画こそ、素晴らしい映画だ」と、個人的には思っているのだけれど、今回はそうでもなく、後味の悪さは前作を遥かに上回った。
ハードボイルド探偵モノのセオリーとしては高得点だけどねぇ。
茹ですぎっていう。

勝手に何かすごいものを期待して行ったのがそもそもの間違いだったのではなかろうか。
感想ではなく反省なのかこれは。

そういえば、人を殴るときの音が少しばかり重すぎるのは気になったなぁ。
あんな音しないもん。

でもあれだ、「舟を編む」の松田龍平よりは、こっちの方が余程彼らしい。
ので、舟を編むを絶賛していた某映画評論家のことは再び嫌いになりましたとさ。
どっちも良い作品でした。はい。終わり。



追記:エロスが足りない。

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Posted by | 21:39 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

20 2008

キサラギ

アイドルに、嵌まったことのない私には、いまいちファン心理というものがわからない。というか、どうも芯からオタクになりきれない性格なので、何かひとつのものを徹底的に追い続けるなんて経験がない。したがって、どうも、こう、何かしらのオタクという人たちには引け目を感じてしまう。そんな必要は無いんだろうが。
浅く広く、時たまやや深く。そんな信条で生きてますってなもんで、ここら辺、なんともまったくどうにも自慢できる話ではない。
でも、おそらく、この25年間、オタクエンカウント率は非常に高かったと自負している身とすれば、小栗旬の演技には脱帽した。
「ああ、こんな人いるいる、いるなぁ」と、思わず唸った。
でも、そんなこと考えている時間も束の間、物語に引き込まれてしまい、なんか、オタクとかそういうのどうでもよくなった。
手法としてはありきたりなのだけど、だからこそ非常に高度な演技力(主に間の取り方か)とか、構成が要求される。それが、密室推理劇(?)とかそういう類のものだと思う。
よくできてると思ったことのなかに、物語に引き込まれるんだけど、どうしても一歩引いた目線でしか観ることができない、という距離感がある。
それは、当事者じゃないからとか、オタクじゃないからとか、フィクションだからなんじゃなくて、これがアイドルの話だからなのだと思う。
偶像。いるんだけど、いない。つかみどころがない。現実に、確かに存在するものなのに、その存在が現実と乖離している。小栗演じる「家元」が感じている如月ミキとファンとしての自分との距離感が、見事に演出されている。様な気がする。
大体、あまり名の売れていないアイドルが自殺しても、ちょっとしたニュースにはなってもすぐに大半の人々の記憶から消えてしまう。その出来事自体に現実味がないのかもしれないし、しょっちゅう起こる悲しい事件のひとつと片付けられてしまうということでもある。それによって、たくさんの人が悲しんでいるのもわかるのだけど
登場人物一人一人にスポットが当たっては、急転し、落ち着いて、事実が一つずつ明かされていく。現実ではあまりお目にかからない展開ではあるけど、「実は…」という、ドラマティックな自分語りの一つや二つ、大抵の人間が持っている。それを大袈裟にすると、この映画みたいなことになるんじゃないか。
皆が皆、疑問と疑惑を抱えていて、それらがパチンパチンと弾けて消えていく。後には空しさしか残らないのだけど、それはそれで清々しい。
それで終わらないのが、いやらしいところなんだが。
何かに没頭するあまり、周りが見えなくなる。
端から見ると滑稽であっても、真実を追求するなんてそんなもんだと。

Posted by | 08:22 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

10 2008

魔法信者

散々オーラに対して懐疑的な事を書いておきながら、今日は魔法について肯定的に書いてみる。(別にオーラを否定してるわけじゃないしー)

とは言っても、現実の世界における魔法ではない。フィクションとしての魔法について。
ハリー・ポッターシリーズが割と好きだ。
割とというのは、どうも本(和訳)の方が苦手だからだ。訳文の文体が苦手というのが正しいかもしれない。(「賢者の石」も「死の秘宝」もペーパーバックで辞書片手に難なく読めたので)
つまるところ、映画が好きだという話。
何にせよ、初めて「ハリー・ポッターと賢者の石」を観た時は驚いた。
いわゆる遊園地(テーマパーク)の楽しさである。
擬音語で表す楽しさと言おうか。
一気にファンになった。勿論、映画の。

魔法なんて見たことがないから、いくらCGを使ったって現実味に欠けるわけで、だからこそCGを使う意味がある。見たことも無いようなものをスクリーンに登場させるという点では、余程に説得力がある。
私たちが、CGで作られたものを見て、それがどんなに精巧であっても何となく嘘っぽいと思うのは「そんなもの見たことがない」からなのであって、それは世にも美しい蝶とか深海の生物に感じる感想と似ている。
蛍の存在を知らない人に蛍の映像を見せたら「嘘っぽい」と思わないだろうか。
初めてハダカデバネズミやダイオウグソクムシを見たら、「嘘っぽい」と思わないだろうか。
綺麗過ぎる花を見て「造花じゃないの」と思わず触ってしまうのも、9.11のWTCビルに突っ込む飛行機も、超ハイスピードカメラで撮影された銃弾が鉛筆を貫く映像も、今まで見たことがないから嘘臭く見える。
だから、魔法が嘘臭く見えたってそれは当然だし、まず嘘だし、だけどCGの魔法を見て嘘臭くてつまらないって断言するのはつまらないことじゃないだろうか。
映画の中だけでも、その魔法の存在を受け入れてしまえば、我々、観る側の想像の範疇はそれこそ馬鹿みたいに広がるのに。

映画やドラマが見せてくれるのは、我々が常日頃にふと「こうだったらいいのに」とか「こうなったら嫌だな」と想像してしまうシチュエーションだ。
製作者たちは、日々、我々の想像に沿ったり、裏切ったりしながら、どうやって満足させてやろうかと思案を巡らせている。
ハリー・ポッターのシリーズはそれがとてもうまくいった例のひとつだと思う。

今、唐突に思い出したんだけど、黒澤明の「蜘蛛ノ巣城」という映画で、凄い数の矢が殿様に向かって飛んできて壁にドダダダって刺さるシーンがあるけど、あれって矢をピアノ線(?)に沿わせて飛ばしたんだそうだ。怖!
今だったらきっとCGで片付けちゃうんだろうなぁとか考えると、大したもんだと思う。
いや、CGじゃダメだとか言ってるんじゃなくてね。
CGだからこそできたスターウォーズEP1・2・3とか、ポニョとかあるわけだし。
背景の上にガラス板を2、3枚置いて撮影なんかしてたらあんな波とか大量の魚とか表現できないわけだし…まぁジャングル大帝レオのオープニングのOPみたいなのもあるけどね、昔から。
話を戻すけど、魔法って誰もリアリティを感じられないものだと思う。
見たことがないものは信じられないのが人ってもんだし。(幽霊が怖いというのは別。認識できないものに恐怖を抱くことと、存在を信じることは同義ではない)

魔法使いが杖の先から何か出したり、箒で空を飛んだりなんて、全人口中99%のマグルは見たことがないんだから。
だけど、あの映画はその99%のマグルの「魔法があったら(使えたら)良いのに」という思いを、見事に叶えてくれた。
私の個人的な感傷にすぎないのだけれどね。

Posted by | 10:26 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

13 2008

ポニョのこと

『崖の上のポニョ』観賞後に。

散々、ジブリ系譜作品を観てきましたが、初めて宮崎駿という人物の内面に触れた気がした。いや、気のせいなのかもしれないけど。
でも、それは置いとく。

映画が終わって観客達が席を立つ時、その映画の評価がよくわかる。
もうちょっと言うと、エンドロールが終わって、明かりが仄かに灯って、立ち上がる前、2、3秒の間がある。連れと目を合わせて微妙に笑ったり、深呼吸をしてたり、頭を掻いたり、「あー」とか「んー」とか唸ったり、足下を見つめたり、伸びをしたり、微かに溜め息をついたり、ニヤニヤしたりして、席を立つのだ。
今回、一番後ろの席で観たからというのもあるが、何と言うかすごく微妙な空気が館内に充満したのを感じた。他の観客たちの不満とか不消化が透けて見えたのだ。明らかに、満足げな人の方が少なかったのだ。
で、ふと思った。
みんな、あからさまな嘘(フィクション)がいつから嫌いになったんだろう…と。
いつから映画にはリアリティ(常識ともいえる)ばかりが求められるようになったんだろうか。
誇張表現ではなく嘘である。
誇張表現というのは、例えば驚いて目が大きくなったり、大声を出す時に口が大きくなったり、汗を異常なほどダラダラかいたりする、いわゆるまんが的な表現だ。デフォルメもこの中に含まれる。
では、嘘とは何か。
例えば、魔法の存在は嘘である。主観の問題ではなく、これが嘘でないとファンタジーは成立しない。
まぁ、前提がフィクションである以上、言ってみれば作品全体あらゆる設定が嘘ともいえるが、そういう話をしているわけではない。
『海に魔法使いがいる。彼は海を愛し、海洋生物を愛し、いつの日か地球に再びデボン紀のような海の時代を取り戻そうとしている』
これは嘘か?
嘘だ。
しかし、物語の中では嘘ではない。信じがたい話だし、物語中の常識ともズレるが、その存在は明らかだ。
即ち、映画の外側にいる我々にとっては嘘だが、映画の内側においては、信じられないけど本当の話ということになる。
つまり、物語上の真実に他ならない。
フィクションにおいて、設定は神である。神は嘘をつかない。
神を疑った時点で、物語は魅力を失うのだ。
「ありえない」ことが起こるから、驚き、笑い、憤り、感動する。
映画館の中、スクリーンの前に座った時点で、ポニョの存在は真実に他ならない。
映画の外(私たちが普段暮らすこの世界)には、ポニョはいないかもしれないけど、映画の中にはポニョが本当にいるのだ。
バットマンだって、カーク船長だって、貞子だって、青島刑事だっている。
フィクションを嘘だと言ってしまうことは簡単だし、それもまたこの世の真実だ。
ネコバスは空を飛ぶし、ルパンも空を飛ぶ(?)。
あからさまな嘘だが、それが真実に取って代わることができるからこそ、私たちは物語を愛す。
いったい何が不満なのかね?
大衆に迎合し過ぎたとでも言うのか?
だったらデビット・リンチとかフランシス・コッポラとかの作品だけ観てやがれっての。(暴言)
それとも、ノリが軽いとでも言うのか?
トトロだって充分軽いと思うが。
主人公5歳だよ?あれ以上の試練を望むのか?
登場人物がおおらか過ぎるだって?
人間性の理想を撥ね除けてまで我々の常識を押し付けて面白いのか?
あの素敵にシンプルなラストに不満でも?

宮崎駿監督は、物語の醍醐味ってやつを知ってる人なんだろうと思う。
ただ、私もなんだけど、その感覚が古いのかもしれない。
目だけは肥えていて、それ故に話題性と満足度の見分けがつかない消費者たちには、あらゆるものに『解説書』が必要だし、『後日談』まで必要なのかもしれない。まったく、大人になればなるほど、『設定』ばかりが大切にされる。
誰かの考えた結末と、自分が考えた結末が一緒じゃないといけない法なんて無いはずなのにね。

先日、トランスフォーマーをボロクソ言ってましたが、何となくわかったんですよ。
トランスフォーマーは、嘘に説得力を付加しようとする力が弱い。お決まりの展開に、お決まりの台詞、子供騙しのギャグや国家機密。地球規模のスペクタクルをやる気があるようには見えない。
現実に引っ張られすぎて、自ら物語に限界を作ってる。
ポニョはどうか。まず、現実に寄り添ってないところから、物語への感情移入を容易くしている。
海岸線の入り組んだ僻地が舞台になっている時点で、文明への依存度が下がる。すると、外界の存在が自然とぼやけるのだが、船があることで外の世界があるのもわかる。世界がなんとなくあるというのがわかるだけで充分なのだ。
おとぎ話に世界情勢は必要ない。
キスをしたら夢から目覚めれば良い。
それに、世界規模の危機がお気楽に見えるのは、『おとぎ話』だからという理由じゃ足りないのだろうか。
結局は、小さな愛の物語なのである。それで世界が滅びようが何だろうがそこは問題ではない。
男の子と女の子が世界を救うというようなおおそれた話ではないのだから。
自分たちの、本当に個人的な未来を救う話でしかない。半径3mに大切なものはそろっているとはよく言ったもので、直径6mの円を作れば家族や恋人や友人の大部分は入りきるんじゃないだろうか。
それを守るというだけで、私たちの両手はいっぱいだし、世界なんて大き過ぎて手に余る。
時代が移り変わっても、『おとぎ話』は色あせない。

ただ、ひとつ言えるのは、私たちの世代以降(いや、35歳以下くらい?)の深層記憶にはすでに『懐かしい風景』が存在しないのではないかという悲しい事実だ。
トトロを見て、懐かしいと思えるのは、人にも育った場所にもよるが平均25歳くらいではないか。
ここ数年で昭和の町並み(高度経済成長期初期まで)や、大正ロマンを食らい尽くしたメディアと消費者がふと我に返って見たものは、もはや掘り返すことのできるノスタルジーすら残っていない失われた10年だった。
そんなの切な過ぎるよ。
我々はポニョにノスタルジーを感じただろうか。
感じないといけないなんて話は無い。ポンポン船もV字アンテナも薄型テレビも別に何か特別感じないといけない気持ちは無いはずだ。
だけど、「なんかちょっと懐かしいような、甘くて温かい記憶」を刺激はされたんじゃないか。
靴を脱いで裾を捲って海に入る時に、はちみつの瓶を開けるしぐさに、チキンラーメンができるのを待つ間に、マッチでロウソクに火をつける瞬間に。
虫かごの中の虫がいなくなっていたり死んでいた時の悲しさとか、捨て猫を拾って帰ったこととか、両親の帰りが遅かった夜とか、深夜の雷で目が覚めたりとか、カルピスの原液の分量が多すぎて咳が出たりとか、朝顔の花の数が少なかったとか、男の子なのに親戚の人たちから「かわいいねぇ」と言われるのが嫌だったこととか、プールの反対岸が暗くて何かいそうで怖かったとか、5(6)時のチャイムが恨めしかったとか。
ここはノスタルジーの墓場か。
ポニョを観た現役の子どもたちが、大人になってもう一度ポニョを観て、笑って「懐かしいなぁ…」と思うのかどうか。
それは、私たちのいる今現在よりも未来をいかに今よりも悪くしないかにかかっているのかもしれない。
携帯電話の出ない作品を見て、果たして子どもたちが懐かしいと思うのかは謎だけど、よく考えたらトトロにテレビは出てなかった気がする。
私が心配するような話ではなかったのかも。
読んだ人(だいぶ物好き)から1500文字分くらい時間返せって言われそう(苦笑

私個人としては、ポニョは良い作品だと思います。
おおそれた夢とか理想とかを描きづらい時代をよく表していると思います。
約束された幸せとか、なんとなく見えるちいさな希望とか、ジブリ作品らしく、結局は地に足の着いた理想…幸せは目を凝らせばたくさん転がっていて、それを幸せと思うかは心の物差しが決める…みたいな、『壮大な小さな幸せ探し』が徹底されていて安心して楽しめましたし。
往年のジブリファンへのプレゼント演出も(ちょっとやりすぎだけど)ぐっときました。
もう一度観たいかと言われると、DVDで良いかなぁと思うけど、未見の方には是非観て欲しい。
自分の記憶の中で、一番幼い時の気持ちでね。

何だかんだ言って、正直で素直だった自分と向き合ってみるのも、たまには悪くないものです。
痒いし、痛いけどね。

Posted by | 03:34 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

23 2008

特殊効果のみか

トランスフォーマーとやらを観てみた。
何と言うか、がっくりきた。テンション落ちた。
いや、面白かったといえば面白かったんです。むしろ、かっこよかったというのが正しいか。
何が面白かった(かっこよかった)のかといえば、ロボット(オートボットとやら)の変形シーンでした、としか言い様がない。
でも、それにしたって、何がどうなってそんな形になりなさるのかわからないという玩具屋泣かせな超絶変形でしたが。
言ってしまえば、そこ以外には、あまり感じるものもなかったということになります。
久しぶりに映画を内容から批判したい気分になってますよ。珍しく。
なんかこう、しっくりこないというか、むしろ腹立たしい。
あと、痒い。
何故にロボット活劇モノは、主人公がいちいち童貞でなければならないのか。
いや、違う。しっくりこないのはそこじゃないんだよ。
だいたい、いったい誰をターゲットにした映画だったんだろうか?
あの興行収入だから、相当数の人が観ているはずなんだけど。
あれか、ガジェットヲタクか。
真面目にストーリー考えてるようには見えなかった。(昔のアニメ版の方が良かったんじゃねえの。そういえば、コンボイのおもちゃ持ってたな。貰い物だったけど。まぁ、ギリギリ本放送見たか見てないかの世代ですが。)
ロボットの変形を最新のVFX(という言い方もそろそろ古典)で表現したかっただけなんじゃないだろうか。
ドリームワークスって無駄にすげえって思った。
どうしたらそんな変形するんだよ、おい。質量増えてるだろう。という変形が素敵でした。
でも、話の筋ときたら。
最後とか、もう。
何、何なのさ。
んなわけあるか。
頭痛がする。
理由も書かずにこんな文句言ってたら性格疑われますな。
でもネタバレしちゃうから。
今更か。去年の映画だし。唐突に思い出したんだけど、このガッカリ感は、アレに似てる。アレ。ガンダムの実写。G-セイヴァーとかいうやつ。
あれはCGにもガッカリだったけれども。
ストーリーの残念さには共通するところがありますな。
冒頭、中東カタールでの戦闘前、死亡フラグを立てた大尉どのが死ななかったところには感心したけど。厳密にいうと死亡フラグではなかったということか。
つーか、あの軍人さんたちタフすぎるんですけど。大半が最後まで生きてるし。
ヒロインの女の子が特殊技能と灰色な過去を持っていて、主人公なんかよりよっぽど強いという黄金パターンにもうんざりしたし、情けなくて頑固な主人公の方は運だけで危機を切り抜けていくだけ…
なけなしの勇気ってやつは認めなくもない。それにしても、「敵が主人公を追う場合は6割増くらい優しく、何故か情けをかける」という不文律がなければ一瞬で死んでる。いや、いくらなんでも主人公の先祖に免じてなんてそんな虫のいい話は無い。
大統領直属のの特務機関を軍や情報部が知らないとか、宇宙からきたテクノロジーのおかげで人類の技術は進歩したとか、そりゃ地球上にはアメリカしか国がないというならば、それで良いかもしれんが。

アメコミ原作にしろ、ジャパニメーション原作にしろ、結局は製作サイドの上の方はそういうものをバカにしてるのかもしれない。
まぁ、アメコミについては、元々のストーリーが陳腐なものが多いのでなんとも言えないのだけど、もっと人物が魅力的な脚本が書けないものかなぁ…

でも、人物が魅力的な脚本をロボットモノで描こうとすると、メインが戦闘じゃなくなるのは間違ない。
そして、興行収入が低い。
その良い例が「パトレイバーTHE MOVIE 2 ~TOKYO WAR~」だと思いますが。

だからと言って、ロボットが動いて変形すりゃ良いってもんじゃないだろう。

いくら勇気と運があったって、あんな風に敵の親玉が死んじゃったら、ナイトシャマラン作品でなくともガッカリするっつーの。

最後に一言。
ロボットの口は、喋る時あんな動き方しちゃだめだと思う。

Posted by | 03:44 | Comment [0] | TrackBack [0] | パンドラの箱(映画評)

13 2005

炎のゴブレット

観てきました。
話題作。
「ハリー・ポッター」シリーズ第4作ですよ。

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Posted by | 00:54 | Comment [0] | TrackBack [1] | パンドラの箱(映画評)

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